明治時代になるまで、現在の学校のような全国一律の教育システムはなく、地域の「寺子屋」が教育の主役でした。
当時は、今以上に「生まれた土地で死ぬ」のが当たり前の時代ですし、現代のように機械化がされていない時代ですから、成人=貴重な労働力です。
必然的に、今よりずっと「地域のことは地域で」という地方自治意識が高く、子どもたちが、きちんとした大人になることは、地域の人間にとって、非常に大きな関心事で、解決すべき課題でした。
そう、地域の子どもたちは、そのまま地域の未来でもありました。
そこで地域の人間が、地域にある寺社などを使い、地域の人間が主体となり、地域の子どもたちに「読み、書き、算盤」のほか、「手紙」「契約書」「訴状」の書き方、「地理」「人名」など、庶民向けの生活中心・実用中心の初等教育を施しました。
しかし現代はどうでしょう?
「何のために勉強するかわからない」
「受験のための勉強でしかない」
など、子どもの頃に疑問に思ったことはありませんか?
これでは、勉強のモチベーションが上がらない子どもがいても、不思議ではありません。
意外と知らない寺子屋の真実
かつての「寺子屋」は、「師匠」と呼ばれる指導者が、「寺子(筆子とも)」である異年齢の子ども全員がいる部屋の中を歩きまわり、一人ひとりの発達度合に応じた指導を行っていました。
また、先に進む子が遅れた子を指導することもあった、落ちこぼれを作らない「ともに学ぶ場」であり、「人格教育」の場だったのです。
その指導を行なう寺子屋の師匠は、地域の知識人や武士の他、地域外から招へいする場合もあり、「寺子屋」というとボランティアのような感じがすると思いますが、寺子屋師匠への報酬や運営にかかる経費は、寺子の家庭から出される金銭や贈り物の他、共同体として、子どものいない住民が集って出資するケースもあったそうです。
また、場所も、中世は寺でしたが、江戸時代には普通の屋敷などを使うようになったりしたそうで、「地域の未来を支える人間」になるのですから、地域としても必要な場所だったことがうかがえます。
ちなみに、当時のエリート階層である武士の子どもたちは、基本的には、藩の作った「藩校」や「学問所」などの武士のための義務教育機関に通い、「読み、書き、算盤」以外にも、「武道」の他「支配者としての倫理」なども学びました。
そこでは、現代の学校のような厳しい試験制度があり、試験結果いかんでは就く仕事が悪くなったり、最悪の場合、家督相続が許されないケースもあったようです。
かたや寺子屋には、学びを楽しむための「計算競争」等はあったようですが、ほとんど試験らしいものがなかったようなので、その辺はエリート階層との違いで、「おおらかな学びの場」となっていました。
そんな寺子屋ですが、明治期になり「学校」が出来るまで全国に1.5万~3万か所あったとされ、当時の外国の人が驚いたという、驚異の「識字率」を支えました。
中央集権的な仕組みはなく、横のつながりくらいで、共通の教材も出回っていたそうですが、教材も自作することも当たり前にあったそうで、そんな「地域発」の教育のしくみがなぜ、今日まで姿を消してしまっていたのでしょうか?
「学校」の誕生
明治期になり、欧米の「教育」という概念が初めて導入され、国家による国民教育の場として「学校」が生まれました。
学校は、朝から半日通う部分は寺子屋と同じでしたが、指導方法はまったく異なります。
寺子屋では、同じ部屋に違う歳の子どもが一緒に学び、試験もありませんでしたが、
学校では、学年別に分けられ、「進級試験」や「落第制度」も導入されました。
寺子屋では、師匠が歩き回り、自学自習する子どもたち一人一人の進捗度合に応じた指導を行いましたが、
学校では、教師が教壇に立って生徒全員と対面し、同じ内容を「教える」欧米式の一斉授業を採用しました。
(ここで「教師」という言葉が生まれました)
寺子屋では、実学のテキスト(往来物等)以外にも、師匠が教材を自作することもがありましたが、
学校では、国家による統一的な「教科」のテキストを使うことになった(現代は「認定」)。
寺子屋では、地域が主体となって、人材や場所を準備したが、
学校では、国家が主体となって、人材や場所を準備した。
こうやってみると、学校の欠点ばかりが目につきますが、学校制度のおかげで、学ぶ期間も長くなり、高度な文明的発展を遂げるに至りました。
そのおかげで、地域ごとの教育が大きく変わることなく、平等に試験を受けられ、進学先も就職先も自由となりました。
これは、身分制度のあった江戸時代には考えられないことです。
また、日本の国民は、どんな悲惨な災害時にも規律を守り、暴徒化することがないのも、学校制度のたまものです。
これ以外にも、学校にはたくさんの良いところがあります。
しかし、寺子屋の時代にあったものがなくなってしまっているのも事実です。
学校でやりきれないことを~寺子屋の意義~
学校制度は「平等」が基本です。
(ごくまれにニュースになるような人もいますが)ほとんどの学校の先生は、子どもへの愛情にあふれ、子どもの未来のことを必死に考えてくれています。その気持ちがあるからこそ、できる仕事だとも言えます。
しかし、現実的に先生方が直面している課題は、文科省が定めた「学習指導要領」という「教えなきゃいけない内容」の基準があり、また、求められることがあまりにも多く、子どもたち一人一人の状況を把握できてはいても、完全にフォローするのが難しいということです。
たとえば、勉強に明らかに遅れがでていても、その子のために授業をまた最初からやることはできません。「他の子たち」のために、先に進むしかないのです。
そうして、勉強についていけない子どもが出てきます。
しかも、海外では勉強の進度が遅い場合、留年して、追いつけたら途中でも学年が上がれるような仕組みがあることもありますが(課程主義)、日本の、特に義務教育では「年齢主義」で、絶対に同じ歳の子と同じ学年に進級します。それは「平等」としては正しいかもしれませんが、明らかに学力差があっても、先に進んでしまうという負の側面もあるのです。
その結果、子どもとしては、周りはどんどん進んでいくのに、全然ついていけていない・・・という状況が発生し、それが積もりに積もると、まったく勉強をやる気にならなくなるのも仕方ないことではないでしょうか?
また、「親の経済力が子どもの将来に影響する」など、まことしなやかに騒がれておりますが、地域として、子どもたちにできることはないのか??
その発想でたどりついたのが、かつて、地域で子どもを育てていた「寺子屋」という「仕組み」です。
塾など、「個人」を対象とした学習支援は多々あれど、「地域の子ども」という目線で支援をする仕組みが、税金を使った学校教育、ごく限られた貧困世帯への支援以外にはほとんどありません。
また、両親が外で働く、片親が増える、友だちが習い事で遊べないなど、放課後に行き場所のない子どもたちの「面倒を見る」場所はあっても、「学ぶ」場所というのは、塾などをのぞくと、非常に限られるのが現実です。
パソコンもスマホもない時代の「仕組み」が、なぜ現代にないのでしょう?
「教えるではなく導く」
「その子の進捗に合わせる」
「実際の生活に役立つ学びを与える」
「異年齢で助け合う」
「地域の人間が子どもたちを支える」
・・・など、「寺子屋」には、現代ではほとんど失われてしまった「おおらかな学びの場」としての「仕組み」がありました。
その、「結果」に縛られない(コミットしない)学び舎こそが、今の子どもたち、とくに、学校の勉強について行けない、「学びの楽しさを感じられない」子どもたちには必要なのではないでしょうか?
寺子屋の教材って?
寺子屋の教材は、『百人一首』『徒然草』や、『論語』などの中国古典(四書五経)の他、『往来物』と呼ばれる手紙形式の教材、千字の異なる漢字を文章にまとめた漢字学習教材『千字文』、名字だけをまとめた『名頭』『苗字尽』、地理や地名を学ぶ『国尽』『町村尽』、道徳を学ぶ教訓集『実語教』『童子教』などがあったが、その選択は寺子屋に任され、コピーにコピーをしたものや、地域の実情に合わせて改変されたものなど、地域によって異なる教材を使うこともあった。
なお、手紙形式のテキスト『往来物』には、中世から使われている道徳的な『庭訓往来』のほか、商売に使う言葉やルールを学ぶ『商売往来』、農家に必要な知識を学ぶ『百姓往来』などがあり、わかりやすくするため、挿絵を使うものもあった。あまりにも『往来物』がテキストとしてポピュラーなため、寺子屋の教材を総称して『往来物』とよばれることもあった。
『商売往来』(国文学研究資料館 鵜飼文庫蔵書)
『百姓往来』(国文学研究資料館 鵜飼文庫蔵書)
『千字文繪抄』(国文学研究資料館 松野陽一旧蔵書)
参考文献:高橋敏『江戸の教育力』、沖田行司『日本国民をつくった教育 寺子屋からGHQの占領教育政策まで』、木下玲子『寺子屋グローバリゼーション』、文科省『学制百年史』、東京学芸大学附属図書館『寺子屋の学習と往来物』、『ブリタニカ国際大百科事典』、『Wikipedia』