鳥羽見寺子屋は、地域の皆さまのお力添えでもうすぐ設立から5年。
その間150名ほどの子どもたちが来ました。
その中には、特別授業だけ来る子もいれば、毎週通う子もいたりと関わり方は様々ですが、どの子も、ここで学んだことがその後の人生の何らかの「糧(かて)」になってくれれば思い活動を続けています。
それでは歴史に登場する「寺子屋」は、どんな場所だったか?
江戸時代は身分制度があった時代ですから、支配者層である武士には「藩校」や幕府運営の「昌平坂学問所」があり、それ以外の一般市民向けにあった民間の教育機関が「寺子屋(手習塾)」です。
寺子屋では、地域の大人たちが、地域に住む子どもたちに、読み書きや算術のほか、親が商人なら商売に必要なルールなどを学ぶテキストを、親が農民なら暦の読み方など学ぶテキストを使うなど、一人一人の子どもに合わせた教育が行われていました。
親の職業で教材が変わるなど、「職業選択の自由」のある現代人からすると不自由にも思えるかもしれませんが、実態は子どもが学びたいことを学べる選択の自由もあったようで、あくまでも子どもたちの未来に対しての学びの支援だったことが伺えます。
その頃から比べると時代は変わり、価値観も変わっていますが、いつになっても「子どもが社会の宝」であることは変わりません。
人の歴史を作ってきたのは人であり、子どもたちを育てることは、ひいては人や地域の発展に直結するからです。
その為には、「自分だけが幸せになればいい」という発想ではなく「みんなが幸せになれば自分も幸せ」という発想が必要です。
ちなみに江戸時代の寺子屋の師匠たちは、僧侶や武士もいましたが、実はほとんどが「町人」だったそうです。
出来る人が出来ない子に教え、育てることで地域社会を作ってきたんですね。
(本コラムは鳥羽見小学校で配布された、寺子屋通信の内容を再掲しております)