ちょっと時間が空いたので、来月実施予定の「水質調査隊」の下見に矢田川まで。
地元民ではないので、鳥羽見コミュニティセンターから歩いて矢田川まで行ったことなかったんですが、結構距離ありますね。
しかも思った以上に高低差があります。
まぁ、なんといっても鳥羽見小の学区には、あの、平山城「守山城跡」がありますからね!
高低差があっても理解できます。
・・・といってもそんなメジャーでもなく、ここに来て初めて知りましたけど。
意外な人も住んでいた?守山城
今、ドラマ化されている『新・信長公記』の元ネタであり、織田信長の一級史料(という人もいる)「信長公記」にも記載がある、由緒正しい守山城。
といっても名古屋城みたいな立派な城郭があったわけでもない、戦国時代らしい平山城ですし、信長がいたわけではなく、信長の叔父である織田信光(のぶみつ)の居城だったということで、一般の人からすると誰?な話。
もっとも有名なのが、織田家を攻めようとしていた徳川家康の祖父の松平清康(きよやす)が部下に殺されて撤退した事件(守山崩れ)の場所だということ。
当主の殺害によって、松平家(後の徳川家)の衰退が始まり、三河が今川の傘下になって、バタバタしている内に孫の竹千代(後の徳川家康)が織田家の人質になったと。
まぁ、祖父と言っても清康は当時25歳で、家康も生まれていないため、もっと一般の人向けに、なんかわかりやすいのないかなとWikipediaを見ていたら、一時、浅井長政に嫁いでいた織田信長の妹「お市」が淺井家滅亡後に、その娘である、茶々、初、江の三姉妹と共に一年間守山城で過ごした、という情報がありました。
ちなみにその時の城主は信光の弟、織田信次で、これも信長の叔父。
つまり、徳川家にとっても、織田家にとっても関わりが深い城なんですね。
実際の守山城跡はどんな感じ?
そんな由緒正しき守山城跡ですが、もちろん今は城の跡形もなく石碑だけがあって、「えっ?ここ?」みたいなところにあるとは聞いていましたが、矢田川行くついでに実際に行ってみると、民家のアパートの敷地を通らないと行けないという、すんごい場所にありました。
一応、パワポで作ったような案内図が書かれていますが、正直ちゅうちょしますよこれは。
アパートの敷地の奥に小高くなった場所があり、その上が守山城跡の石碑があるようで、迷惑にならないようにササッと入らないといけません。
なんか、このクオリティなので、登ってもあまり期待は出来ないなと思って登りましたが、
やはり石碑があるのみでした。
石碑が悪いわけじゃないんですけど、あまり石碑はときめかない私。
それでも、鳥羽見学区を見下ろせる位置にあるため、ここが立派に平山城(平地の中の小高い場所に作った城)だったことがわかる景色が見られたのは非常によかったです。
現代は、銃火器や航空機、今やドローンなどの「飛び道具」が戦争の道具ですから、こういった高低差がかつてほどは効果がなくなっている現実もあるとはいえ、遠距離攻撃は弓矢くらいの時代からすると、たった十数メートルの高低差でも、相当優位に戦うことができたでしょうから、こういった「地理」を踏まえたところに城を作ろうとした、昔の人たちの「思考力」に学ぶこともありますね。
まぁ、残念ながら現場は木々がボーボーで、子どもがそれを感じられるような場所にもなっていませんが・・・。
ちなみにこの守山城跡の南に宝勝寺(ほうしょうじ)というお寺があるので、てっきりこの石碑も寺の敷地内にあると思ったら違ったんですね(石碑がある方が「本丸」のよう)。
石碑の所と完全に分かれておりまして、その間には堀があったとのことですが、今は深い竹林になっています。
しかしここには守山城がどんな姿であったかを想像する材料もないので、ここから歩いて10分弱の所にある守山図書館(旧守山町役場跡)にある「復元模型」を見るとよいでしょうね(Wikipediaでも見られます)。
そういえばこの守山図書館。
受験生達によると「夏休みは自習室がいっぱいになる!」とのことなので結構狭い自習室なのかと思いきや、意外と席が多いんですね。
図書館自体はかなり小さいですが、20年前に見た夢に出てきた場所とソックリなのでちょっと驚きました(正夢多いんです)。こんな変わった構造の図書館はないだろうと思っていたら、まさかこんな身近なところにというような造り。
お隣の宝勝寺も守山城跡
守山城の石碑がある所から、竹藪と駐車場を経て南にあるのが、宝勝寺(ほうしょうじ)。
学校の社会科的には、鎌倉仏教の内、禅宗に属する2つの内の1つ、道元が開祖の曹洞宗のお寺です。
二城小の近くにあり、竜泉寺街道の交差点名にもある「大永寺」と同じ曹洞宗なのでなんでかなと思ったのですが、これまたWikipedia情報によると、大永寺の住職が、先の殺された松平清康を弔うために建てたお寺ということらしいですね。
建立時期が1637年だか1650年だか諸説あるようですが、いずれにせよ江戸時代ということなので、死後100年くらい経っているのに弔うなんてのは、江戸幕府にとっての「神君(しんくん)家康」のお爺さんだから、殺されて100年だから、ということでなんでしょうかね?
その辺はちょっとわかりませんが、いずれにせよ、徳川家にとっては悲しい歴史のある土地ということでしょう。
場所的には守山城があった土地なので、周辺より高台になっており、今も境内から周囲の土地を見下ろすことができます。
向こうに見えるのは矢田川で、南からの侵入を防ぐ城だったことも伺えますね。
ちなみにここから東に向かって、周りより小高くなっているところ(守牧交差点より東に向かうと高くなっていきますよね?)は、「守山台地」と言われています。
守山台地という、周囲より小高くなっていて、南には矢田川という天然の要害があったので、守山台地の西端であるこの場所は、城を作るのに最適な場所だったのでしょうね。
文字を読むだけでなく、実際に「体感」してみると、そういうことがよくわかります。
「現場」を見ることは本当に大事なことです。
守山城があったのに「守山」じゃない?
ちなみに宝勝寺のWikipedia情報に面白いことが載っていましたが、昔この敷地内に、鳥羽見小のお隣の守山小のルーツである、「守山学校」というのがあったようですね。
実は私、守山区民でも何でもないので、なんで「守山台地」の端にある「守山城」のあった土地の小学校の名前が「鳥羽見小」で、そこから1km以上離れたところに「守山小」と「守山中」があるのが不思議でしょうがなかったんですよね。
区の名前の由来になっている「守山」が、こんなんでいいのか?と。
地名も守山城がないところが「守山」になってるし、今、守山図書館になっている旧守山町役場は比較的近いとはいえ守山小の学区であり、守山城に近いところが「市場*」「鳥羽見」で、守山城かの市場だったから「市場」という地名は残っているのに、かんじんの「守山」が残っていないのはなぜか、不思議でしょうがなかった。
でも、それももともと、守山城の跡地に、守山学校があり、それが(一旦町北に、その後現在地に)移転して「守山尋常小学校」となるので、守山城と離れた所でも「守山」なんだと合点がいきました。
というか調べれば調べるほど、そもそも「守山」という地名は、そんなに強い名前ではなかったようですね。
もともとあった「守山村」は「二城村」の大字*(おおあざ)扱いだったようで、なのに町村合併の時に「小幡村」「大森村」なども含めて「守山町」になったと。
*下のレベルの区域。さらに下は小字。○○村××なら、○○村大字××のように書いた
なんだかとてもミラクルですが、調べ出すと結構大変だと思うのでこの辺でヨシとしておきましょう😅。
あ、ちなみに守山城の近くの城で同じく廃城となっている「小幡城」というのがあったのですが、「西城小」は、小幡城(跡)の西だから「西城」なんですね。それも初めて知りましたよ。
白山神社はどこにでもある?
そんな守山城跡東に100mほど行った場所に「白山神社」という神社があります。
もともとは古墳(守山白山古墳)で、その上に神社が建っているケースですね。
「未調査」ということで誰が埋葬されているかもわからないそうですが、名古屋市内で最も古い大型の前方後円墳なんだそうです。
気になったのは英文の「This is a key-hole shaped burial mound...」という文字ですね。
「key-hole shaped」ってまんま「カギ穴型」じゃないですか。
(burial mound=古墳)
やっぱり、「カギ穴型古墳」って説明した方がわかりやすいってことですね。
※前方後円墳の「方」は四角を意味してるので(正方形の方)、前方後円墳=前が角ばっていて、後ろが円いということ
ちなみに「白山神社」というのは、日本三名山(日本三霊山)の1つで、石川・福井・富山・岐阜にまたがる「白山」を神とする、いわゆる人型の神ではなく、山岳信仰のタイプの神社ですね。
沖縄以外の全国に約2700社も「白山神社」がありますが、ほとんどが東海北陸地方に集中するとか。
名古屋市内でも10以上あるし、実際にこの近辺にも白山神社がいくつもあり、なんなら同じように「古墳の上に白山神社」がある、春日井の味美(あじよし)には「白山神社古墳」がありますし、中区新栄にも古墳の上に白山神社があるとか。
古墳の上に白山神社というのは「なんで?」という感じもしますが、ハッキリした答えはないようなので、白山神社の歴史は奥が深いので興味があったら調べてみるとよいでしょうね。
(興味わくかなぁ😅)
矢田川はいろいろ予想外でした!
そして、白山神社や守山城跡の高台を下っていくと、見えてくるのが矢田川です。
川で遊べると聞いたのですが、実際行ってみるとボーボーでした笑。
どうやって水質調査すんだこれ?
と不安になってしまいましたが、歩いて行くと、川に近づけるところがあってホッとしました。
それにしてもアレですね。
庄内川が昔よりキレイになって、鮎を見かけるようになったとは聞いていましたが、支流の矢田川も思ってた以上に水の透明度が高いですね。
逆に、こんなんじゃ水質検査やっても面白くないか?
とも思ったりしましたが、まぁ、それはそれで水道水とかと比較することも出来るし、まぁ、水がとれればなんとかなるだろうと。
あとは、台風が心配ですよね。
夏の暑い時期を避けてやることにしたのですが、10月は言ってもまだ台風シーズンですし。
今回みたいな巨大な台風が来たりした日にゃ、川の流れが速くて危険だし、濁流過ぎて水質調査の参考にならないし・・・結局、運を天に任せるしかないですが、ダメだった時のプランB、プランCも考えておかないとな、とホント思いました。
あとは、参加者が集まることを祈るばかりです笑。